細分化された音の世界

細分化された音の世界では、アーティストピアノサービスらしさが最も発揮される
細分化される音色の世界を理解する事は容易ではありません。
しかし、その世界こそわたしたちの最も得意とする分野であり、わたしたちらしさを表現できる場でもあります。
”音色への情熱”のページにて、「音の好みというのはある一定の対極的なトレンドラインが存在し、そのトレンドから大きく外れる事がなければ殆どの人は良い音だと言う」と書かれています。この書き文句に間違いは確かにありません。大きい意味では、このトレンドを外さない事から音作りは始まります。しかし、この章では細分化された世界に話しを更に掘り下げてみたいと思います。
演奏家は大抵何をもって“このピアノが良い”とおっしゃっているのでしょうか?
この“何をもって良いピアノ”という定義は、本当に難しいと思います。演奏家の耳が良いと言っているのか?聴衆の耳が良いと感じているのか?はたまた調律師が良いと感じているだけなのか?それぞれの思い込みなのか・・・
わたしたちの結論としては、細分化された音の世界に“良い音”は存在しません。それぞれが良いと思うわけですから、正しい表現としては“その人に合っているピアノ”もしくは“その人
に合っているピアノ調整”と定義できると思います。“良い”や“好み”という言葉はあまりに抽象的過ぎて、その先に存在する世界を掠めてしまいます。ですから、わたしたちはピアニストとお付
き合いするときに、自ら「良い音」という語句を用いる事を極力避けています。
本当に理屈っぽいのですが、ある一定の耳にとって”良い“と感じているだけなのであり、その”良い“は次の瞬間には通用しなくなる可能性もあります。例えば楽曲が変わったり、体調の変化によったり、その時の精神状態であったりで、その人自身の”良い”は簡単にかき消され、”その時々に合った音”を求めるわけです。
また、調律師側に着目するのであれば、調律師はピアニストにお仕えする立場であり、全てはピアニストの価値観に自らを染める必要があります。勿論お一人だけの専属というわけに行きませんから、
その時その時に出会ったピアニストに合わせていきます。難しい事ではあるのですが、そのピアニストに染められる経験が多いほどに、調律師は自ら持ち合わせている音色の価値観とブレンドする事で、音に対する考え方にバリエーションを増やす事ができます。そして、自らの一定のトレンドを作り上げる事ができます。新たなトレンドが出来上がると、また新たなピアニストと知り合う。出会ったピアニストとまた新たな価値観の創造を行う・・・・こうしたスパイラル効果によって、調律師はその経験とともにより一層磨き上げられたトレンドを手に入れていきます。
しかし、その細分化された音の世界、つまり“良い音が存在 しない世界”にも明らかに傾向はあります。
では、ピアニストは一体何が大切なのか?何を自らに合っていると感じるのか?
わたしたちの経験の範囲ですが、ピアニストとピアノを選定していると特に感じられるのは、第一に表現力です。演奏家は良い状態のピアノを弾き慣れていますから、いわゆる“タッチが軽い”で
すとか“音が出やすい”といった類の意見はあまりしません。それらは、演奏テクニックで十分にカバーできてしまうからです。もしくは、余りに初歩的な状況で気に入らない場合は、話
しにならないとだけ言って終わってしまいます。 演奏家は、そのピアノ自身、もしくは現状のピアノ調整状態に対しての可能性を求めているように思えます。要は“今目の前にあるピアノで今演奏する音楽が成り立つかどうか“という
ことのみが最重要項目となります。では、その表現力とは何なのか? それはピアノ自身が持つ力、音量のレンジ、和音の混ざり方がネックになっているように思えます。特に和音の混ざり方については、どんなに調律師が整音を施してもどうにも手に負えない場合があります。最近の新しいスタインウェイで経験することですが、例えば8本の指で重音を鳴らしたとして、8通りの音というよりは、様々な意味を持った一つの音にまとまらなければ”和音といえないのではないでしょうか。しかし、最近のスタインウェイはどうも和音が一つにまとまりきらない感じで、音は鋭いのですが、それぞれが単独にあちこちの方向を向いて鳴ってしまっている感があります。先日もこの要望がある先生から出て、シックハックした挙句、
「今のスタインウェイでは、僕の求める音は出ない」とおっしゃられ、ある程度まで仕上げましたが、和音の混ざり方という要素に関してはそのままでスタートしました。確かに1970年代以前のスタインウェイに人気が集まるのは分かる事で、音色の構成が全く違います。いわゆる70年代辺りのグラモフォンレコードなどで聞こえてくるスタインウェイサウンドで、音色の質をかなり鋭くしようと、調律を旋律的(高音部と低音部の上下落差を強めに調律すること)
に調律しようと、なんとも丸みを帯びた一つの和音を形成してくれます。 演奏家というのは、自らの絶対的価値観を基にして音を聞くと共に、音楽を見通してピアノの能力を見抜きますから、ピアノに対しての拘りも相当に見受けられます。
これも以前経験したことですが、海外から来たある著名演奏家の仕事でした。4台の演奏会用のスタインウェイピアノが並べられ、どれを使うか選定に立ち会ったのですが、何とも良い経験をしました。4台のうち1台は新しく納入されたピアノで、音もタッチもまだまだ鳴りきっていなく、「これは駄目だ」と分かるピアノでした。それは勿論選ばれませんでした。次にある程度弾き込まれ、それらしい音のするピアノ2台が用意されており、選定に立ち会った誰もが「この辺りで
決まるかな・・・」と思っていたようです。勿論ピアニストも「この2台で良いんじゃないか」と
言われて、あっさり決まるかのようでした。最後の一台は見るからに古めかしく、取り合えず台数合わせのために置かれているように見受けられたピアノでした。音色は整音は今ひとつ、
調律も狂っていて「やっぱりね」と思わされるようなピアノでしたが、ピアニストは4台のピアノを弾き比べ、さっきの良いと思われるピアノ2台と、古めかしいピアノの間を行ったり来たりして、最終的に最も古めかしくベロベロの音色のピアノの前で「これにしよう、調律師が数日手を入れたらとても良いピアノになるだろう」とおっしゃられました。当社の調律師は「まいったなあ」
などと思いながら、そこから数日間ホールに通って調整をしました。結果は、ピアニストの先生はさすがで、とても素晴しい演奏会になりました。その瞬間に出ている音色に価値を置くのではなく、一番可能性を持ったピアノを選ばれたのです。
ピアニストは、自らの演奏という行為に対して、指一本動かすにあたっても、その一音一音にそれぞれのプロセスが存在するわけでして、そのあらゆるプロセスがやっと一つの音として表現されるとでもいえば良いのでしょうか。一つの音楽が形成されるにあたって、演奏家は演奏する曲目の楽曲分析、作曲家の歴史的背景、作曲家の思想などを勉強し、そして自らの練習といった華やかな舞台の裏には、かなり地味な勉強時間が見受けられます。そして、最終的にピアノを通して先生方の哲学や思想を表現され、それが音楽という形になるわけです。その形を伝える道具がピアノであり、私たち調律師が先生方のピアノを表現に最も適した形へと魂を吹き込むわけです。演奏家と調律師は、
確かに切っても切り離せない仲ではあるのですが、接点は非常に小さな物です。しかし、練習するピアノ、本番のピアノと生命線である楽器を預かっているわけですから、立場としては非常に重要になります。先生方が大切にされている一音一音を、その重要性とともに思い入れを、
調律師側が理解していなければなりません。それくらい、演奏家の一音というのは重いものだとわたしたちは理解しています。
演奏家の価値観に、調律師の“様々なピアニストに仕えて来た経験”という要素が加わり、相互に意見交換を交わしながら音色が作り上げられます。わたしたちは、ピアニストと知り合う度に勉強をさせられますし、また細分化された音の世界では発見が日々あります。ピアニストと調律師、立場が違えば意見も違うといったところでしょうか。これだけ仕事に慣れていると自分たちは思っていても、まだまだ細分化された音の世界ではピアニストからのOKを頂くのに苦労しています。
そして、また新たにピアニストと知り合うとき、それまで自らが良しとしていたものを全否定し、新たなピアニストとの創造の世界へ入っていきます。そのとき、調律師はそれまでの自分を超越する感性を手に入れ、新たなる音の世界へと新境地を開拓します。
一部メールマガジンから抜粋
|